Sunday, May 29, 2011

ナオミの道

「ナオミの道」 ジョイ・コガワ (浅海道子 訳)1989年 小学館

1942年2月15日
急に事情が変わってきました。
まず初めに、日本生まれで市民権を取ることのできない一世たちは、逮捕されました。一度に百人、あるいはそれ以上かしら。

3月2日
私たちの素敵なラジオも持っていかれました。カメラもみな没収されました。ステファンのおもちゃのカメラまで、警察が見せろというので出したところ、持っていかれてしまいました。令状がなくても、彼らは日系人の家の中まで捜索できるのです。
 でも、もっとショックを受けたのは・・・・・・・。
 私たち全員、立ち退きを命令されたことです。一人残らずなんですよ。太平洋岸から百六十キロ以内に住む日系人は、全員もっと奥へ立ち退かなければなりません。自分達が、明日、あるいは来週、どこにいられるのか、だれにもわかりません。
 いずれにしても、私たちカナダで生まれた二世は、外国人でないのに。
 ”ジャップ、立ち入り禁止”という標識が、すべてのハイウェーに立てられました。
 新聞に、「英国風の生活を守るためには、日系人を追いはらわなければならない。」という投書がありました。私たち日系人は”程度の低い人間”なんですって。私たちがカナダに同化しないといって非難しています。

3月20日
 昨夜は、百人以上の青年が、列車で四千キロも離れたオンタリオ州シュライバーの道路工事キャンプに送られました。百五十人が、ジャスパーにある別のキャンプに行きます。
 二世の集まりである”二世会”は、カナダ政府への忠誠を証明するために労働キャンプに行くようにと、必死に呼びかけています。最初の百人は行くのを断りました。するとすぐ逮捕され、移民局の建物の中に監禁されてしまいました。

4月11日
今朝、お父さんは、収容所の男性宿舎に行きました。吐き気がしたそうです。悪臭はするし、ほこりは舞っているし、個人生活のプライバシーは、まったく守られてないとのこと。
 女に人と子どもたちが入れられている家畜小屋は、もっとひどいのです。こやしのにおいもして。わらのふとんは、じめじめして、腐っています。新鮮な果物や野菜もありません。


これはカナダ生まれ日系カナダ人のジョイ・コガワさんの自伝的なフィクションです。70年近く前、日系人が多く住んでいたバンクーバーで起きた実際の話です。コガワさんはまだ子供で、上の日記はコガワさんの叔母さんが、当時日本に帰国していたコガワさんのお母さんに書き続けた手紙。コガワさんの生家は、バンクーバーの我が家から歩いて10分のところに今もひっそりと建っています。

カナダでは当時日系人はすべての財産、家財品、住宅がカナダ政府に没収され、日系人は奥地の寒さの厳しい山中の収容所に送られました。没収された品々はすべてカナダ人に安く売り下げられました。日系人はとても美しく精巧な釣り船を造って漁業中心の営みをしていましたが、そんな船もすべて売り払われました。戦争が終わってからも、奥地に送られた日系人は元の家に戻ることが許されず、さらにまたカナダの奥地へと送られたのです。もちろん、没収された家財品、財産は返還されませんでした。

コガワさんのお母さんは戦争が始まる直前に自分のお母さんと、日本に里帰りしました。長崎にいる病弱なおばあちゃんの看病をするためです。戦争が始まり、日系人のカナダへの帰国は許可されなくなり、日本に足止めされたコガワさんのお母さんとおばあちゃん。当時6歳だったコガワさんはなぜお母さんが帰国できなくなったか知らされず、いつになったら戻ってくるのかと待ち続けました。皮肉なことにコガワさんのお母さんは長崎の原爆で死にました。

 おばあちゃんは、毎日毎日、さがし歩きました。
 ある日の夕がた、もう、さがす気力もなくしてしまったおばあちさんは、はだかのままで倒れている、一人の女の人のそばに座り込んでしまいました。その女の人の顔は、鼻もほおもほとんどなく、体中ひどいけがをしていました。頭には、毛が一本もなく、体の傷口には、無数の蠅がたかり、うじが、いっぱいわいていました。おばあちゃんは、その人をじっと見ました。すると、女の人も、うつろな目でおばあちゃんを見返し、突然、はらはらと涙を流したのです。泣き声をあげることは、できなかったのです。
 それが、ナオミのお母さんだったのです!
 中略
 お母さんは、二人の子どもにつらい思いをさせたくなかったのです。ナオミは、おとなになるまで、お母さんが原爆で死んだということを知りませんでした。


平和に思いながら過ごしているカナダでも、こんな人種差別の歴史があったのでした。カナダは1971年に、世界で最初の国として多文化主義を政策に取り入れました。今となっては様々な人種の人たちが住むカナダ。アメリカの人種の「るつぼ」に対して、カナダは人種の「モザイク」を謳っています。バンクーバーのような国際都市では、我が家の子どものように2ヶ国語、あるいは3ヶ国語話すことができるとうらやましがられます。我が家も当然ながら、カナダ人、そして日本人として子ども達を育てています。他人と違っているのはいいこと。その違いを大いに認め合おうじゃないですか。

ほとんどのカナダ人は戦争中に日本人がどんな不当な扱いを受けたか知りません。日本と同盟国だったドイツやイタリア系カナダ人は白人だという理由で、差別を受けませんでした。それでも、カナダ政府は1988年に、戦争中に日系人に不当な扱いと差別したことについて、日系人に公式に謝罪をし、補償を行いました。

カナダ人の夫もコガワさんの「オバサン」という本を読んで、自分の知らなかったカナダの人種差別の歴史を知りました。

そんな夫曰く、「ところで、ニホンはナンキンでどれだけの中国人を殺したんだっけ?キミタチ、歴史の授業でそんなこと教えられたの?」と。

あー、痛い。夫のほうが南京事件をよく知ってる。そういえば、中学・高校と歴史の授業では、どうしても第二次世界大戦の史実になると、なんだか都合のいいように教えられてたなぁ。

本当に、知らされてないことは山ほどある。


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