Monday, May 30, 2011

反体制的市民

今日はちょっと意味不明なことを書きたい気分。

昨日の「ナオミの道」を書いてから気になったこと。歴史とは、いったい何なんだ?誰が作るんだ?だって、日本人が知らない日本の歴史はたくさんある。とくに近代史。従軍慰安婦って?日本バージョンの第二次世界大戦の勃発理由と、連合国側のそれはどう違ってるんだろう?なんで日本人の私たちは日本がアジアで犯した戦犯の数々を知らないんだ?そんなことは歴史になかったと信じている日本人だっているみたいだし。

「サイードと歴史の記述」を読んでたら、なんとなくわかってきた。

歴史記述にとっての刺激をもたらしたのは、ミシェル・フーコーやロラン・バルト、ジャック・デリタなどであり、彼らは真理とそれを生みだし、それを決定する権力のシステムとの繋がりを問題にした。彼らは意味するものと意味されるものとの限りなく多様な関係、言いかえれば言語の星雲上の関係を探求した。言語のほうが現実に形を与え、そのあり方を決定する。したがってあらゆるものは言語・テクストによる構築物である、と彼らは論じた。そしてこの議論はヘイドン・ホワイトに取り上げられ、すべての歴史はいくぶんかの捏造を含む言葉のフィクションだと見なされる。ホワイトによると、歴史とは言葉を駆使してひとつの見解を認めさせようとする修辞的な文章である。それをふまえれば、歴史の真実性は出来事についての文献証拠に内在するのではないと言えるし、歴史とは作り上げられた物語だと言うことができる(14-15ページ)。

エドワード・サイードは、「知識人とは、ドグマや堅苦しい党派的な立場にとらわれることなく自分に意見を持とうとする、責任ある『反体制的な』市民だと定義している。」(8ページ)。

歴史はしょせん、言葉のフィクションで、書き手によって理解の仕方が違うから、誰が書くかによって、その人の国籍や文化的背景がどうかで理解も違っちゃうんだ。アジアで育った日本人の自分が、欧米国の中で暮らすと、これまで見えなかったことが見えてくるようになった。どっちの文化のいいところも悪いところも。文化だけじゃなく、価値観が政治経済にどれだけ影響されてるかということ。

あー、私は、これからも意味不明な反体制的市民でいこうっと。
 

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