Monday, March 29, 2010

奇襲攻撃 その②

2年半前、親友の一人をガンで亡くした。まだ私たちが多感だった18-20歳までの2年間、毎日一緒に勉強し、思想を語り合い、秘密を打ち明けることのできた大切な友達だった。とても聡明できれいだった彼女。彼女は将来への夢を持っていたけれど、当時付き合っていた医学部生と結婚し、早くから家庭に入り、私が遊びほうけている間に彼女は小さな男の子二人を育てていた。医者の妻とは言っても、医学部を出てすぐのお医者さんは夜間勤務で家にいることは少ないし、お給料も少ないし、札幌から横浜に移った彼女は実家からの助けもなく、慣れない地で小さな子供を二人育てていた。

ご主人の研究に伴い、彼女は一家でヒューストンに居を移すこと数年。二人の男の子もその頃は10代の少年に成長。彼女は子供たちを学校へ送り迎えする合間に空手を習ったり、世界各地から研究で来てる家族との付き合いを楽しんでるようだった。実は彼女の若い頃の夢はアメリカへ行くことだった。彼女が描いていた夢と形は違ったけれど、アメリカで数年暮らし、彼も研究を楽しんでいてと嬉しそうにメールをくれることがあった。当時私にはまだ子供がいなく、バンクーバーでの仕事を楽しんでいた頃で、彼女は子供たちも大きくなり、なんだか人生で一番いい時期なんだろうなと思えた。

ご主人のヒューストンでの研究が終わり、再び東京に戻った彼女。新しい家を見つけて引越したかと思うと、これからは長男が高校受験で大変よと言いながらも、なんとなく余裕の感じ。日本に戻ったことで彼女の暮らしもますます安定するのだろうなと思っていたら、少し調子が悪いので検査をするとメール。その次にはガンが判明したというメール。でも、外科医の夫もいるので安心、これから治療に励むわと明るいメール。私も彼女の言葉を信じて、それほど気にはしていなかった。あるメールには、元気になることができたら、私もヒーラーになって、外科医の夫と医学部受験を目指す息子とともに、ヒーリングができたらいいんだけどと、頼もしい将来の夢を語っていた。病気になったことで多くのことを学んだと、どこまでも前向きだった彼女。2006年の大晦日に交わしたメールが最後。1月に上諏訪の温泉に行くのを楽しみにしていると書いてあった。

2007年になると、私は1歳になったばかりの双子の育児に明け暮れていた。気がついたら6月。彼女としばらくメールを交換してなかったと思い、6月下旬にメールを出した。返事はなし。またそこから子育てに忙しくなり、メールをすることさえ忘れてしまった。9月になって、これはおかしいと思い、彼女に電話しようと思った。だけど、彼女が日本に帰国してからの電話番号を聞いていなかった。そこでインターネットでご主人の名前を検索。勤務先の病院名と電話番号が出てきた。すぐに電話。バンクーバーからの国際電話ですと言うと、間もなく彼が電話に出てくれた。約20年ぶりに聞いた彼の声。落ち着いた口調。

「6月の00日に、亡くなったんですよ」の一言で、私の目から涙がこぼれた。一番聞きたくない言葉だった。奇しくもそれは、私が彼女にメールを出した頃だった。もしかしたら私がその日を選んだのは、虫の知らせで彼女が教えてくれたのかもしれない。

「1月に家族で温泉に行ってね、回復してるように思えたんだけど、3月に痛みが出てね。。。」ゆっくりと落ち着いた口調の彼。きっと患者や家族のことを第一に考えるいい医者になったんだろうなと思った。私は涙をこらえるのに必死だった。

彼のことを思うと余計に悲しくなった。彼は父親をガンで亡くしていて、母親は骨肉腫で足を切断していた。なので、一度は東京の大学に入学したものの、外科医になってガンの研究を志したいと、北大の医学部に入りなおした人だった。ちょうど彼女と彼が付き合い始めた時、彼はバンカラな北大の気風そのものの人で、ユーモアいっぱいで豪快な人だった。小樽まで一緒にドライブしたり、彼のお薦めのカフェに行ったり、若かった私たちは束の間の楽しい青春を過ごした。彼がそうして外科医の道を選んだことを覚えている私は、最愛の人をガンに奪われ続ける彼のことを思うと言葉が見つからなかった。

私のことをいつも励ましてくれた彼女。自分の夢を断念して家庭に入り、若いのに子育てに専念していた彼女のことを私は気遣ったことがあっただろうか。あの頃は自分中心の人生を過ごしていたので。双子が生まれて、3歳以下の小さな男の子3人を育てるようになって彼女のことを考えるようになった。「近くにいたら手伝いに行きたかったのに」とメールに書いてきた彼女。彼女の口調から病状はそこまで進行していないと思っていた私は、時差もあったので電話をしようとすら考えつかなかった。

結局、彼女には励ましてもらってばかりで、私は最期まで何もしてやることができなかった。そもそも入試の時に同じ教室に座った時から私は彼女に目をつけていた。華のように可憐で、くりんくりんのカーリーヘアで、少し挑戦的な目つきで。みんなが解答用紙に鉛筆をガリガリ走らせる静かな空間で、彼女は居眠りをする余裕すら見せていた。ふざけた人だなーと思った。そんな彼女と入学式でまた出会い、私たちはいつしか友達になっていた。20年以上も昔のことだ。

彼と電話を切ってからしばらくの間、一人で思いっきり泣いた。しばらく夜も眠れなかった。一人だけになれる車の運転中にもよく泣いた。このことがあってから、何年間も日本の友達と連絡を取ってなかったことに気づき、モーレツに昔の友達に会いたいと思うようになった。誰もが元気でいてほしいと思った。

昨年からまた少し昔の友達とサイバースペースで再会できるようになったことが嬉しい。みんなそれぞれ、10代の時には思いもしなかったような道を歩んできて、よく頑張ったね~と褒めてやりたい。気がつくとそんなふうに思えるようになる年代になっていた。

人生まだまだこれから。私は、これからも奇襲攻撃を続けます!

2 comments:

Shoko said...

素敵なお話、シェアしてくれてありがとうございます。
会ったことない人だけれど、明るく聡明で素敵な方だったのだなぁと感じました。物語みたいで、読んでいてすごく引き込まれてしまいましたよ。

「人生まだまだこれから」

大学卒業という、私の人生の大きな一区切りがもうすぐやってくる中で、少し不安になってしまう気持ちが最近多かったけれど、これを読んで元気がでました:)

Ms. MacSaito said...

Shokoちゃん、コメント有難う。そうか、大学卒業で不安定になってるのですね。大丈夫、Shokoちゃんはすごくいい道を進んでるから。

年を取ることって、実はすっごく楽しいことなのよ!